〔8〕
翌朝、眠れなかったあたしは重い頭を抱えながらも、亮の入院する軍の付属病院へ来ていた。
昨夜見た事・・・。
それは、俄かに信じがたいものではあるけれど、無視するには衝撃的過ぎるものだ。
誰かに話さなくては、けれど、誰にも話してはいけないような、そんな矛盾する思いに
翻弄されながら、病室の前に辿り着く。
亮に話すべきか、話さざるべきか。ノックをしようと構えた手が躊躇している。
「あら、沙羅。来てくれてたの?」
突然後ろから声を掛けられ驚いて振り向くと、トートバッグを提げたダニエラがにこやかな表情で
病室に向ってくる。
「あ、ああ。亮の調子はどう?」
妙に焦っている自分を取り繕うが、笑顔が上手くつくれない。
「ええ。お蔭様で順調に回復してるわ。折角来てくれたんだけど、今、検査を受けてるところなの。
もう暫くしたら戻ってくると思うんだけれど・・・」
すまなそうに言うダニエラの言葉に、むしろ救われたような気がしている自分がいた。
「気にしないで。あたしもこれから仕事に行かなきゃいけないから、今日はこれで帰るよ。
亮によろしく言っといて」
この状況に似つかわしくないような笑顔を浮かべ、怪訝そうなダニエラの視線を背中に感じながらも、
あたしは早々に立ち去った。
駐車場へ向うべく病院の玄関を出た途端、刺すような視線が躰を包む。
やっぱり・・・誰かに、監視されている。
朝、マンションを出たときからここに辿り着くまで、誰かがあたしの行動を注視しているような気がしていた。
けれど、その気配はほんの微かで、あたしが意識した途端にそれは逃げるように消えてなくなってしまっていたから、
自分の気のせいかとも思っていた。
けれど、その感覚は間違いではなかった。
それはピリピリとあたしの全身を刺して動きを絡めとるような、恐ろしく攻撃的な意識だ。
この敵意を総身に感じて、亮を襲ったのはこの視線の主だとあたしは確信した。
そして、それはおそらく、昨夜あたしの前に姿を現したあの人物。
・・・亮のあの歯切れの悪さが、納得いくよ・・・。
あの姿を見たからこそ、亮はあんなに曖昧な態度だったに違いない。
この一年、口にすることすら暗黙のうちにタブーと化していた『忍』という言葉。
既に、この世にはいないものと思っていた人物。
それと寸分違わぬ姿が、目の前に現れたとしたら・・・。
そして、敵意を持って自分に対峙している。
こんなこと、口に出せないのは当然だ。いや、それ以前に、それが真実であるかの確信が持てないに違いない。
本当に忍なのか?
どうやってあの事故から生き延びたのか?
何故、いままで姿を現さなかったのか?
そして、何より忍ならば、どうしてあたし達に敵意を抱く?
これは何を意味しているのだろうか。そして、何が起ころうとしているのか。・・・いや、もう既に始まっていることを
ひしひしと感じる。
亮を襲撃したこと、あたしの前にその姿を見せ付けるように現れたこと。
背後には、暗い意図が渦巻いているのを嫌でも感じざるを得ない。
・・・しかし、そう感じながらも、一方では可笑しいほど狂喜している自分がいた。
ほら、やっぱり忍は死んでなどいなかったのだ、と。
そして、あの時の言葉通り、忍は帰ってきてくれたのだ、と。
冷静に考えればまともな状況ではないのに、愚かにもそう考えてしまう自分を戒める気には、到底ならなかった。
その日以来、視線は常にあたしの行動を監視していた。
朝、マンションを出て仕事へ行く時から、夜、再びマンションへ戻ってくるまでの一日中。
その視線の主は、最早自分の存在を隠そうとはせず、それどころかあたしへの敵意を明確にしていた。
自分の存在を思い知らせるように、敵意を投げつけてはくるが、闇雲に襲い掛かってくる様子は無かった。
常にその視線に注意を払っていたせいもあるだろうけれど、しかし、ある意味、確実にあたしを狙える時を
待っているとも言えるだろう。
「ご馳走様でした。それじゃあ、おやすみなさい」
「お疲れ様。気をつけて帰ってね」
数日後、仕事がひと段落着き、その打ち上げも兼ねてスタッフ達と事務所から左程遠くはないレストランへ食事に来ていた。
皆でわいわい騒ぎながら美味しい料理を堪能して店の前で別れを告げるが、もう一仕事片付けてしまおうと事務所へ
戻るべく来た道を歩き始めた。
所々に立てられている街灯が薄暗く道を照らし、夜半を過ぎた住宅街の人通りが無い道に、あたしの足音だけが高らかに響く。
すると、街灯の灯りの間を縫うようにして、数メートル前方の薄暗い闇からひとつの人影が滲み出てきた。
それは、どの闇よりも暗い人影だった。
・・・やっぱり、来たね。
遅々として状況が変わらない中、事態を見極める為にはやはり彼と対決するしかないと、どう考えてもお誂え向きなこの状況を
あえてあたしは作った。
覚悟をしていたとは言え、亮をあんな目に合わせたヤツとどう戦ったらいいのか、無謀にも全く見当がついていない。
躰を緊張感が支配していき、思わずゴクリと唾を飲み込む。
それは戦いよりも、あの人物の全貌を再度目にすることに対しての緊張感によるものだった。
本当に、忍の姿をしていたら、そして、その姿で自分に襲い掛かってきたら、あたしはどうすればいいのだろうか。
忍が生きていたことに喜ぶべきなのか、敵として対峙するべきなのか。
感情がめまぐるしく交錯して、ただ、目の前の暗い影をじっと見詰めていた。
どれくらいの時間、立ち尽くしていただろうか。
突然、低い声が薄暗い闇に響いた。
「・・・結城、沙羅・・・」
「!!」
それは忘れもしない、いや、忘れられるわけが無い、まさに忍のその声。
何度もあたしの名を耳元で囁いた、愛しい声。
「・・・・・しの・・・ぶ・・・?」
呼び声を合図にしたかのように、街灯の下に姿を現した。
闇に溶けるような黒いスーツに身を包み、そこに照らし出されている姿は紛れも無く忍以外の何者でもなかった。
その黒髪、その瞳・・・・全てがあたしの中の忍の記憶と寸分も違わない姿だった。
唯一つ違うもの・・・それは、あたしを見据えている、恐ろしいほど冷たい瞳の表情。
その姿を目にした途端、あたしの全身は小刻みに震えだした。
死んだはずの忍の確かな姿を目の前にした驚愕。
生きていてくれたという、これ以上無い喜び。
あたしに向けられている敵意に対する困惑と疑惑。
全ての感情が交錯してあたしの思考を奪い去り、意識が真っ白になったその隙を突いて、忍の躰があたしに向って
弾ける様に飛び込んできた。
「!?」
それはまさに攻撃の体勢で、拳が顔面に振り下ろされる直前で左へ跳び退って避けるが、間髪入れずに忍の右足が体勢の
整わないあたしの腹部を蹴り上げる。
――疾い・・・!
避けきれずにそれを喰らいながらも、蹴り上げられた方向へ自らも退くことで衝撃を逃がして何とか持ち堪える。
「くっ・・・ごほッ」
蹴られた衝撃で込み上げてくる嘔吐感を懸命に抑える。
次の攻撃に移る様子も無く、何の感情も読取れない表情であたしを見据えているその外見は、紛れも無く忍のものだ。
けれど、そんな冷たい瞳で、表情の無い顔であたしを見る忍を、あたしは知らない。
・・・こんなのは忍じゃない。忍であるはずが無い・・・!
今、あたしの目の前にあるものは、何かの間違いのはずだ。
「アンタ、誰よ?忍の姿をしてるけど、本当は誰なのさ!?」
その想いに、叫びに、追い討ちを掛けるように、冷たい表情のまま言った。
「俺は、藤原忍だ・・・。お前達に殺された・・・。」
―――何て・・・言ったの・・・?あたしたちに、殺された・・・?
全く予期していなかった台詞に耳を疑い、その姿をあたしはまじまじと見詰めた。
【9】へ