〔3〕
日本を出発しておよそ一ヶ月が過ぎた。
イベントはミラノからパリに舞台を移し、そして、次の開催地であるニューヨークに
一昨日移動してきたところだ。
「・・・・やっぱり切れてる・・・。」
あたしは携帯をベッドの上に放り投げた。
一応、メールでは連絡してあったものの、ニューヨークに着いた報告をしようと、
昨日から忍に電話をかけているが、
携帯の電源が入れられていないようで繋がらない。
タイミングが悪いのかな・・・。
今こっちが夜中の12時だから、日本は朝の・・・10時くらいか・・・。アイツ・・・飛んでる最中かな・・・。
服のまま、ベッドに寝転がる。
今日も一日慌しくて、ホテルの部屋に戻って来たのもほんの30分ほど前。
シャワーを浴びる気力も失せるくらい疲れている。
それもその筈で、これまでの一ヶ月間、まともに休めなかったからだ。
移動すれば当然のことながら会場は変わり、現地スタッフも入れ替わって、その都度一から
同じことの説明と設定。
そして、他のデザイナー達と演出プランの練り直しや調整。
しかも、自分も含めて、皆若手・・・要は経験が浅いから、思わぬところで、それとは気付かずに
自分で掘った落とし穴に
自らはまったりもする。
そんな感じで、毎日手探り状態でここまで来たのだった。
「ようやく明日から休みか・・・」
寝転んだまま、天井を見つめながらつぶやく。
明日からといっても、たった二日間。
思うように事も運ばないから、当初の予定の半分も休みは取れていない。明日から二日間が、
イベントツアーが始まって以来の
まともな休日だ。
「そういえば、先月は忍の誕生日だったっけ・・・」
6月の初旬はツアーの開始直後で、そのことを思い出す余裕など全くなく、その後もメールすら
殆ど送れていない状態だった。
おめでとうも言いそびれちゃったな・・・。
何気なく横に転がっている携帯を眺めると、それを待っていたかのように、着信音が鳴る。
慌ててディスプレイの表示を確認する。
――忍だ・・・!
「もしもしっ・・・!」
『よお、俺だけど』
「・・・・・・・」
『おい、沙羅?聞こえてんのか?』
久しぶりに聞く忍の声にまるで体が痺れていく様で、すぐに返事ができない。
「あ、ああ。聞こえてるよ・・・」
携帯を持つ手がなぜか震える。
そして、心の奥からゆっくりと安堵感が湧き上がってきた。
・・・忍・・・あんたの声が聞きたかったよ・・・
その気持ちを言葉にできず、ぶっきらぼうに答えていた。
『なんだよ、久し振りだってのに、もう少し感激はないのかよ?』
言葉とは裏腹に忍の声は機嫌がいい様子だ。
「はん、勝手に自惚れてな。」
こんなことを言いたいんじゃないのに。
どうしていつも、自分の気持ちを素直に言葉にできないんだろう。
『おまえ、今どこに居るんだ?さすがに仕事終わってんだろ?ホテルか?』
忍はさして気にする様子も無く、話を始める。
「ああ。少し前に戻ってきたトコロだよ」
『ふうん・・・大変だな。そういや、明日から休みだって?この前のメールにあったけどよ』
「一ヶ月振りだよ、まともに休めるのはさ。・・・アンタはどうなのさ?テストパイロットのお仕事は、
上手くやってんの?」
『まあまあだな。そうそう、亮もこっちに出てきてさ、皆でいろいろやってるよ』
「へえ、皆揃ってんだ・・・。楽しそうじゃんか」
その話に、自分だけ一人でここにいることが少し寂しく思えた。
――逢いたいよ・・・。アンタに・・・。
そんな言葉が頭を掠めていく。
『まあな。・・・そういやオマエさ、もうすぐ誕生日だったよな?』
「え?7日だけど・・・」
『仕方ねぇから、祝ってやろうと思ってさ』
「へえ、アンタにしては珍しく気が利くじゃんか。じゃあ、帰ったら―――」
突然のドアベルの音に会話が遮られた。
「ゴメン、誰か来たみたい・・・」
スタッフの誰かだろう。なにも、こんな時に来なくてもいいのに・・・。
「すぐにかけなおすから・・・」そう言いながらドアへ向かう。
「どちら様?」
「お届け物ですが」くぐもった声で返事が返ってくる。
こんな時間に?
訝しげに思いながらもドアを開けた。
――――!!!
目を疑うとはまさにこの事を言うのだろう。
「・・・・忍・・・!」
目の前に立っていたのは、間違い無く逢いたいと願っていた人。
「よ。」
はにかんだような笑顔で忍は応える。
「・・・どうして・・・?」
「どうしてって、言ったろ?誕生日祝ってやるって。ちっと早いけどよ」
「・・・仕事は?」
「ちゃんと休みを貰って来たさ。――それよりも、ホラ」
忍は目の前に小さな手提げの箱を差し出す。
「あ、とにかく中に入って・・・」
とりあえず忍を部屋へ招き入れたけれど、全く予想もしていなかったことに現実感が湧かず、
まるで夢の中にでもいるようだった。
「あたし・・・ホテルの場所まで詳しくメールしてなかったよね・・・。どうしてわかったの?」
備え付けのインスタントコーヒーを作りながら、ソファに座った忍に訊く。
「ん?オマエの事務所で聞いたんだよ。獣戦機隊の藤原忍だって名乗ったら快く教えてくれたぜ?」
前歴を隠してはいないから、事務所が答えるのは当然のことだった。
「そう・・・・。」話しながらピンと来るものがあって、忍に聞いてみた。
「アンタさ、もしかして・・・イーグルで来たんじゃないのかい?休み取ったって、ホントの話?」
忍は口に運びかけのカップを止めて、向い側に座るあたしを上目遣いに見る。
「あは。ばれてた?・・・イーグルじゃぁねえけどよ・・・。」
「し〜の〜ぶ〜!アンタってひとは・・・!」
「早合点すんなって!例の戦闘機のテストフライトなんだってば。博士が好きなところに行って
いいって言うからよ・・・」
あたしはため息をついて、「で?機体は連合軍基地に停めさせて貰ってるんでしょ?
お世話になってんのに、パイロットのアンタが付いてなくていいワケ?」
「まあまあ、この話は置いといてよ、ほら、それ食おうぜ」
さっき手渡された箱を開けると、クリームとフルーツがたっぷりのったショートケーキが
二つ並んで入っていた。
「その店のウマイらしいぜ?こっちに着いて、整備のヤツに聞いたんだけどさ。」
「わざわざ買ってきてくれたんだ・・・。」
「まあ、な。そうそう、整備のヤツに理由を聞かれたもんで・・・恋人に会いに行くって話したら、
快く送り出してくれたぜ?やっぱりこっちの人間は話が分かるよな。だから、問題無しなんだよ」
『恋人』・・・その言葉が忍の口から出たことに慣れなくて、思わず赤面してしまう。
あたしはそれを誤魔化すように話題を変える「・・・そういえば、フォークないんだけど・・・」
忍も言葉にしてしまった照れ隠しなのか、「・・・・んなもん、このまま齧り付きゃいいだろう。食うぞ」
勢い良くケーキを手に取って齧り付いた。
「うまいぜ?オマエも早く食えよ」
口の横にクリームをつけた顔であたしを見る。
「忍、ほらクリームついてる・・・」
あたしは苦笑して忍の口元に手を伸ばし、指でクリームを拭き取る。
「沙羅・・・」
忍はあたしの手を素早く掴むと、クリームを拭取った指を口に含んで軽く吸い上げる。
あたしの戸惑いを気にする様子も無く、忍は手の甲から腕、首筋、頬へと自分の唇を這わせていく。
「あ・・・」
それに合わせてあたしの鼓動は高鳴り、その唇が触れたところを基点に甘く痺れるような感覚が
全身を覆っていく。
忍の唇があたしの唇に触れる直前、「逢いたかった・・・」と微かな呟きをもらした。
―――もっと強く・・・あたしを抱きしめていて。
そうしないと、自分が何処かへ消えてしまいそうになる。
忍に触れられる度に注ぎ込まれる甘美な熱に、あたしの体も意識も少しずつ蒸発していくようだ。
自分がこのまま消えてしまって――・・・二度とあんたに会えなくなるんじゃないかと不安になる。
背中に廻した手に力を込めると、忍もその両腕であたしの全身を強く包む。
―――もっとしっかり、あたしを見つめていて・・・。
瞳の奥に、ちゃんとあたしが映っているかどうかを確かめたいから・・・。
あたしの瞳にははもう、あんたしか映らないんだよ・・・?
あんたはあたしを見てくれているの?
確かめたくて、瞳を開ける。
そこには、やはり昔と変わらない、真直ぐな瞳があたしを捉えている。
あたしを・・・あたしだけを見つめてくれている。
より深く、より優しい眼差しで。
その瞳にようやくあたしは安堵して、更に求める。
もっと、強く・・・。
2人の間に何も入り込む隙間が無くなるように、
全てが重なり溶けあって一つになるように、
いつまでもあたしを抱きしめていて・・・・。
「・・・ん・・・?」
目蓋に陽の光を眩しく感じ、目を覚ます。
「!?」
部屋の中はカーテン越しですら、十二分に明るさを湛えている。
「行っちゃったか・・・」
案の定、部屋に忍の姿は無かった。
「起こしてくれればいいのに・・・」
もちろん、忍が気遣ってあたしを起こさなかったのは良く分かっている。
しかし、込み上げてくる哀しさは抑えようが無い。
「バカ・・・」
ふとテーブルを見ると、ホテルの便箋と一つの鍵が置かれていた。
『沙羅へ
良く眠ってたから、起こさずに行く。
日本に戻ってくる前には一度連絡してくれ。
あんまり無理すんなよ。
俺の部屋の鍵を置いてく。持っててくれ。
忍』
便箋にはお世辞にも上手とは言えない字で、とりあえず言いたいことだけが書いてある。
「そういえば、アイツ・・・。報告書の文章がおかしいって博士に突っ込まれてたっけ・・・」
書き直しさせられてたこともあったな・・・。
その時のことを思い出して、思わず笑いを漏らす。
そして、便箋と一緒に置いてあった鍵を手にとって見つめた。
まだ一度も鍵穴へ差したことがないような、真新しいスペアキー。
・・・・もしかして、これを渡す為に・・・?
忍の全てを託されたような、あたしの全てを受け入れてくれたような、そんな気分になる。
こんな小さな鍵ひとつで、さっきまでの寂しさが急激に薄らいでいくことが、自分でも不思議だった。
あの後、ニューヨークのショウも成功のうちに、終了。
そして、イベントツアー最後の都市である上海でのショウも無事成功を納め、いよいよ帰国の
準備に入っていた。
それはそれで忙しくはあったけれど、やり遂げたという充実感が心地よかった。
そう、忍が逢いに来てくれたあと、自分でも、どこにこの原動力があるのか見当もつかないくらい、
意気揚々とイベントに取り組んでいた。
そして、それは当然のことながら、自分に対し好結果を生むことともなり、自分の中の歯車が
上手くかみ合い始めたかのようだった。
「そうだね、あと一週間くらいで日本に帰れると思うよ」
「そうか・・・。帰ってきたらさ、とりあえず・・・俺の部屋に来いよ。鍵はこの前渡したろ?」
「鍵って、あの忘れ物?」
「忘れ物って、オマエねえ・・・!」
「わかってるよ。・・・すごく・・・嬉しかった。」
自分でも思い掛けなく、素直な気持ちを口にしていた。
「お、おう・・・」
あたしのその台詞に、忍は少なからずびっくりした様子だった。
普段はよっぽど素直じゃないって思われてるのかしら。
忍の反応に少しむっとして、つい憎まれ口をききたくなる。
「ま、足の踏み場だけは作っておいてよね」
「なんだと、このヤロウ。俺だってこう見えても綺麗好きなのよ?わかる?」
電話口でむくれる忍の表情が容易に想像できて、笑いが込み上げてくる。
「まあ、そういうことにしておいてあげるわ。」
「ちえっ。信用してねぇな・・・。――そういやあ、ダニエラにコドモできたってよ。
あいつもとうとう父親だぜ」
「ホントに?すごい、おめでとうだね」
予想外の朗報に、声が弾む。
「ホントにな。―――俺たちも頑張るか?」
「バカ!アンタは調子に乗りすぎ!」
「バカバカ言うなよ。・・・おっと、そろそろ時間だぜ。じゃ、帰る前に一度連絡くれよな。」
「これからフライト?じゃあ、アンタも頑張ってね。」
「お、おう。なんだよ。気持ち悪いな、オマエにそんなふうに言われると」
「何よ、それ。普段のあたしは全く思いやりがないみたいじゃない?」
「そんなことは言ってねえだろ?・・・ったく、喧嘩っ早いんだからよ」
「ちょっと忍?アンタに人のことが言えるっての?」
「おいおい、よそうぜ電話口で喧嘩なんてさ。じゃ、行かなきゃならねえから切るぜ」
「うまく逃げたね。覚えてなさいよ!」
「はは、じゃあな!」
笑い声を残し、忍は電話を切ってしまった。
ったく・・・!
あたしは怒りつつも、頬が緩んでくるのを堪えられなかった。
『俺の部屋に来いよ』
あたしのことを待ってくれている。
忍のたったそれだけの台詞がこんなにも嬉しい。
その嬉しさを幸せだと、素直に感じることができる自分がいた。
・・・そうだ、随分遅くなるけど、帰ったらアイツの誕生日もお祝いしてやんなきゃね・・・。
なにを喜んでくれるかな・・・・。
いろいろと考えては、忍の反応を想像する。
それは、確実にその日が来ることを前提とした、とても・・・とても幸せな想像だった。
【4】へ